背中にピアス |
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| 今年の1月15日、2人の若い女流作家が芥川賞を受賞しました。今さら紹介するまでもないほど有名になった「蹴りたい背中」の綿矢りささんと「蛇にピアス」の金原ひとみさんです。それぞれ19歳と20歳での受賞だったため、一種の社会現象と呼べるほどの騒ぎになりました。すでに交流室でも若干触れていますが、ここで詳しくその2作品を鑑賞してみたいと思います。 純文学を読むとき、作家個人の容姿や生き様を考えるのは全く筋違いであると私は思います。恋愛経験のないごつい男がひたすらロマンチックな純愛小説を書いてもかまいませんし、見目麗しき女性がハードボイルド小説や残虐な戦争小説を書いてもいいわけです。しかし、今回の二人に限っては、世の中はそんな甘い理想を許しはせず、作家の実像に遠慮無く迫っていきました。 初めに世の中を席巻した(?)のは、綿矢りささんのかわいらしさです。私は写真でしか彼女を見たことがありませんので本当の魅力はわからないのですが、女房がテレビで見た感想を聞くと、「若い男の子には抜群にうける顔」だそうです。実際、ネット上でも大騒ぎしている連中がたくさんいます。彼女が書いた2作品の内容とルックスが見事にマッチし、相乗効果をあげているのかもしれません。 もう一つの大きな話題は金原ひとみさんの実生活と言っていいでしょう。綿矢さんがどちらかというとお嬢様的な優等生だったのに対し、金原さんは学校にも通わずに本を読み、小説を書いていたそうです。お父様が大学教授(アメリカ現代文学専攻)をなさっているのも味方しました。中学時代、お父様のゼミに「親戚の高校生」と偽って参加し、小説の研究や発表をしていたそうですが、最後まで年齢はばれなかったんだとか…。 ただ、そういう早熟な子は悩みも多いのでしょうか。中学時代「リストカット」を何度もくり返し、今でも手首には5本ほど白い線が残っているようです。理由は自分の浮気だとのこと。彼とのケンカの後、錯乱しながら切ったようですが、「リストカットしているとき、自分の血がいつも赤いことが結構うれしかった。いつまでも変わらない血が自分の中にもある、と実感できたから。醜い自分に嫌悪感を抱いたときにも、血は綺麗だったから。」と表現する彼女の感性には、やはり非凡なものを感じてしまいます。 作家の実像を見るのは理不尽と初めに自分で言っておきながら、やはり書いてしまいました。では、これから肝心の2作品の内容に迫ってみたいと思います。「蹴りたい背中」と「蛇にピアス」は通読2回と部分読みを何度かしていますが、二人のそれぞれもう一つの作品「インストール」と「アッシュベイビー」は、通読1回と部分読み程度であることを初めにお断りしておきます。 まずは「蹴りたい背中」について。ネット上で本やDVD・CDなどを通信販売している「Amazon.co.jp」の読者レビューでは、「つまらない」という感想が圧倒的に多かったような気がします。割合で言うと、「つまらない」:「おもしろい」が8:2、いや9:1くらいだったかもしれません。非常に身近な、どこにでもありそうな日常を描いている作品なので、心を動かされた人が少なかったということでしょうか。とにかく芥川賞受賞作品ですから、内容に引きつけるものがあることを期待していた人が多かったのでしょう。そんな人たちは、見事に期待を裏切られてしまったわけです。 しかしながら、当然のことですが、文芸作品というのは内容だけで価値が決まるものではありません。細やかな筆致、読者を引きずり込む筆力、圧倒されるほどの筆勢。それらを醸し出す文章自体が読者の心をつかんでこそ、文学と呼べる作品になるはずです。昔、夏目漱石の作品を読んでいた時、「1ページに1文は名文がある」と私は感じました。また、太宰治にはまっていた頃は「桜桃」の初めの2文を読んだだけで恍惚としてしまいました。文学史上に名を残す作家の文章というのはそういうものだと私は思います。 元来、文士のレベルは「文章の巧みさ」で決まるものです。はなから内容だけで作品の価値が決まってしまうなら、常に感動的な物語を思いついた作家の勝ちとなります。中味が心を揺さぶるものならそれでよし、文のうまさなどはことさら関係ない、ということになってしまいます。しかしながら、現実の文壇がそうでないのは誰の目にも明らかです。もちろん内容がおもしろいに越したことはありませんが、たとえ極めて平凡な事柄を描いたとしても、それを文芸作品に仕上げることができるのが作家の作家たる所以ではないでしょうか。物書きという存在は、とにかく「文の匠」でなければならないわけです。 そして、その匠の技が評価され、優れた技を持つと認められた者に与えられる最も有名な賞が芥川賞です。もともとは、何点かのすぐれた作品を残し、将来を嘱望される新人短編作家に送られる賞だったようですが、現在では1作品に対して送られるようになり、また作品の長さも原稿用紙200枚を超える中編まで含まれるようになりました。いずれにせよ、芥川賞受賞作品と聞けば、純文学の精鋭とも呼ぶべき作品であるというイメージを抱く人が多いのではないでしょうか。 その権威ある芥川賞を受賞したということは、綿矢りささんの文章が19歳という若さですでに匠の域に達していることの証左であるとも言えるでしょう。実際、私が最初に読んだ時も、まず文の緻密さや巧妙さを感じました。 読み手の目を引く表現は多々あるのですが、その中でもまず初めに多くの読者を引きつけるのが、選考委員の古井由吉氏も触れていた「がらんどうの瞳」ではないかと思います。同級生の「にな川」は、主人公の「私」の目の前数十センチという距離で「私」に瞳を向けながら、あこがれの芸能人「オリチャン」の姿をはるか遠くに見つめています。その瞳を、「瞳孔が開き、停電していて、ちょっと死相出てた」と綿矢さんは表現しました。直前のものを透かして彼方に思いを馳せるうつろな瞳をここまで綿密に表せるところに、私は綿矢さんの才能を大いに感じます。終盤、コンサートを終えたオリチャンが会場から出てくるのを待ち受ける「にな川」の表情が、「彼にあるのは目だけ」と描写されているのですが、この2箇所の「目」に心引かれた古井由吉氏は、何よりも友だち付き合いを重視し、交遊集団を必死で維持しようとする一般的な高校生たちと比べ、「沈黙が怖いばっかりに無理してバカ笑いしている目と、どちらが陰惨か。」と選評を結んでいます。古井氏は、昭和45年にあの「杳子(ようこ)」で芥川賞をとった作家です。わずか原稿用紙2枚弱の選評でも、さすがに読ませる文章を書くものです。 ただ、一読後、私にとって最も印象に残ったのは、外人カメラマンにコーンフレークを食べさせてもらう、いや食べさせられるシーンでした。あの場面ではまず、オリチャンがいかにも芸能人らしい図々しさを振りまきながら「私」に近づいてきます。初対面で、息が酒臭く、見るからに普通の職業の人間ではない大人(しかも1人は外国人)との接触は、中学1年生に異様な緊張感をもたらすはずです。おまけに、試食品のコーンフレークで腹を満たしているところを見られているのですから、息が詰まって逃げ出したくなるような空気を感じたことでしょう。ところが、この場面には「私」の恥ずかしさを示すような感情表現は全くありません。むしろ、虚勢ともとれる言葉が記されていたりします。おそらく綿矢さんは、羞恥や動揺を思わせる表現を用いないことによってかえってそれを強調し、同時に、懸命に明るく振る舞おうとする中1女子のけなげさを際立たせたのではないかと私は思います。 オリチャンは「自分にもこんな時期があったのかな」とでも思っているのでしょうか、無造作に「私」に水を差し出し、もののけ姫のような「私」の足をほめたたえます。悪ノリはどんどん進み、外人カメラマンにその足の写真を撮らせた後、子鳥が親からエサをもらうような「なんだかエッチな」姿勢でカメラマンが持つコーンフレークを食べました。すると今度はカメラマンが、中1の「私」にも同じ事をさせようとします。そのとき「私」は、「この人たちの仲間になる」ために、「空気をしらけさせない」ために、懸命にノリのいい女の子を演じるのですが、その努力の結果見たものは、カメラマンの瞳に宿る「気味悪がっている」心なのでした。 最後まで読み終えた後も、「その瞳の色で言葉を超えて分かった。男の人は、気味悪がっていた。」の2文がずっと私の頭から離れませんでした。これについてはある掲示板でも書いたのですが、このシーンを読んで、太平洋戦争さなかの日本陸軍兵の肉弾戦を思い出してしまったのです。日本兵は味方兵士の死体を乗り越え、刀を振りかざしながらアメリカ軍の機関銃陣地に突撃していきました。機関銃を撃ちまくる米兵は、この死を恐れない、いや死を一般的な死と考えない日本兵の攻撃法に異様な恐怖を感じたそうです。フロントライン・シンドローム(前戦症候群)には笑いながら無抵抗の人間を殺す残虐的な精神異常もありますが、逆に戦闘不能に陥ってしまうような、異常な恐怖がもたらす神経症もあったようです。 一見、はなはだしい差があるように思えるものの、南方の戦場で米兵が感じた畏怖は、「蹴りたい背中」のこの場面でカメラマンが感じたものと同種なのではないか、と私は想像しました。心の振れ幅が大きく違うだけで、前者はあくまでも後者の延長上にある感情なのではないかと思えたのです。文化的な違いがあるし、なにせ酔ってもいるので、、相手が中1の子供であること、その年代の子供には大人に対して失礼な、しらけさせるような態度は取りたくないという気持ちがあること、あるいはやや背伸びして大人の仲間として振る舞いたいという願望があることなどを瞬時には理解できなかったのでしょう。おそらくここでの「私」の行為は、状況が命令すればどんなに恥ずかしい姿をさらけ出してもその命令に従うような、<異様なノリ>としかカメラマンの目には映らなかったのはないでしょうか。 とにかく、この「気味悪がっている」という表現は非常に印象的でした。「考え過ぎだよ」とも言われそうですが、いずれにせよ、日常の中で充分起こりうる出来事を題材にして、ここまで非日常的なことを思い起こさせてくれる作品というのは、やはり素晴らしい作品なのであろうと私は思います。 もう一点、「意味がわからない」と言う人もいた最後の最後、「はく息が震えた」についても触れておきましょう。実は私も初めは何を言ってるのかわからず、最後のページだけ2〜3度読み直してやっと理解できた次第です。一言で言えば、息の震えは「私」の興奮を表しています。これは大人よりもむしろ小中学生の方がわかりやすいかもしれません。何かに興奮しているとき、特に激昂しているときなど、周りの人に気取られないように呼吸するとはく息が震えます。今は滅多にありませんが、子供の頃には私も何度も経験しました。 もちろん、ここでの「私」の興奮は、「にな川」の背中に足の親指を押しつけたことによってもたらされたものです。本当は以前したように足の裏全体で背中を蹴飛ばしたかったのでしょうが、理性が何とかそれを抑え、親指だけに留まりました。それでも、「ぽきっと鳴る」ほど力が入ったので「私」は充分に興奮しました。そして、振り向いて足を見つめている「にな川」に気づかぬふりでそっぽを向いたら、「はく息が震えた」というのです。なんとも微妙な余韻を残す、綿密に練られたラストだと思います。 作品を通しての「私」の「にな川」に対する思いは、明らかに他の同級生達とは違う雰囲気を漂わせる彼に一種の魅力を感じながらも、同年代の異性である「私」を全く「女」と見ず、平然と背中を向けてオリチャンのラジオ放送に聞き入り、平然と背中を向けて眠るという態度に若干の嫌悪と憤りを感じている、という程度のものであると理解すればいいのではないでしょうか。わずかに見られる「愛しさよりも」などという表現に恋愛感情の高まりを期待する読者もいるでしょうが、あまりその辺は重く見ない方がいいと私は思います。 元来「私」は、小さな衝動で背中を思い切り蹴ってしまうような性格の女の子なのです。でなければ、「にな川」の割れた唇を見て思わず舐めてしまうなどという行動はとりません。この小説の主題は、ひたすらマニアックな高校生と、サディスティックな衝動を時には軽く、時には結構本気で楽しんでいる女子高生の関わり合いといっていいでしょう。はく息が震える場面はあっても、全体を通しての「私」の感情の起伏はそれほど激しくはないのだと思います。もっとも、唇を舐めるシーンはさすがに唐突すぎて、とってつけたような、いかにもウケねらいといった感が否めません。ストーリーの抑揚の無さを気にして入れた場面なのでしょうが、逆に全体のバランスを若干崩していると私は思います。この一点だけがまさしく玉に瑕という感じでした。 それでも、とにかく綿矢さんの文章の巧妙さ、緻密さは特筆すべきものだと私は思っています。内容の凡庸さにもかかわらず作品が読み手を引きつける力を持っているのは、文章の巧みさゆえだと思います。 もちろん、全く逆に「あの、うまさを強調するような言い回しが嫌だ。なぜもっと素直に書けないのか」という批判もあるでしょう。ある掲示板で対話した(対立した?)作家志望の男性は、「読みやすさこそ全て。文学に芸術性があるとすれば、読みやすさこそがまさしくそれである」という内容の発言をしていました。私が、最近読んだ青春小説3作品を挙げ、「『世界の中心で、愛をさけぶ』が三流、村上春樹氏の『ノルウェイの森』が二流、『蹴りたい背中』が一流だと思う。」と書いたことを彼が納得せず、ちょっとした論争になりました。もとより私には自分の感想に客観性を持たせる意図は無かったのですが、村上春樹ファンの彼は「一流・二流」という表現を見て気分を害したようです。「世界の中心で…」はいずれにしろ、春樹氏の作品で最も人気がある「ノルウェイの森」がなぜに二流なのか、という思いなのでしょう。 しかし、彼との論戦を経た後でも、私の感じ方は変わりませんでした。「ノルウェイの森」は確かに読みやすく、かなりの長編であるにもかかわらずあっという間に読み終わります。読むのが非常に遅い私でも、仕事の合間と夜中の時間を利用して上下巻それぞれ一日ずつで読み終えてしまいました。文章だけでなく、ストーリー展開が素直なことも読みやすい理由となっていると思います。しかしながら、展開がスムーズであるほど先がおおよそ予測できてしまうので、逆に言えば、読みやすさはあまり大きな感動をもたらさない要因にもなり得ます。正直に言って、読み終えた時は「ふーん」という感想で、「もう一度読みたい」とは全く思いませんでした。今でも、残念ながら再読の意欲は湧きません。 精神を病む女性と彼女を思う男性というテーマは、前述の古井氏の「杳子」も「ノルウェイの森」と同様なのですが、筆力に格段の差があるため、私にとっては「杳子」の方が圧倒的に上でした。ですから、平凡な題材を選びながらも文章の巧みさによって読み手を見事に引きつける小説に仕上げている綿矢さんも、古井氏と同じように素晴らしい作家であると私は思うのです。 今は、一度だけ「蹴りたい背中」を読んで「つまらなかった」という感想をもらした人には、「とにかくもう一度読んでみて」とお願いするようにしています。本音を言うと「ぐずぐず言わずにもう一遍読んでみろ」という気持ちです。そして、まだ出会ってはいないですが、二度読んでも何も感じられなかった人には、「じゃあ仕方ないね」と言うでしょう。ところがこちらの本音はかなり手厳しく、「あなたには文章自体を読み味わう感性が無いから、これからは『内容がすごい』と評判になっている本だけを読むようにしましょう」と言いたいところです。 ずいぶん過激な表現をしてしまいましたが、もちろん今これを読んでくれているあなたがまだ中高生ならば、これから感性を磨いていけばいいのですからムッとする必要はありません。ただ、すでにあなたが大学生以上であるなら、いや、もしかすると高校生だったとしても私の言い回しに憤りを感じるかもしれません。それはおそらく、「文の好みも十人十色」と強く主張したい気持ちであり、また、「主観を他人に押しつけるな」という憤怒なのでしょう。 しかしながら、これは私だけの主観ではないのです。芥川賞の選考委員におおよそ共通する「主観」だったのです。綿矢さんの文章に対して宮本輝氏は「驚くべき進歩」と言い、池澤夏樹氏は「異物排除のメカニズムを正確に書く技倆(ぎりょう)に感心した」と称え、「蛇にピアス」と合わせて「背中を蹴られ舌を穿たれたのはわれわれかもしれない」とまで言っています。また、河野多恵子氏も「若さの衒(てら)いや顕示がなく、視力は勁(つよ)い」「夫々(それぞれ)の特性に適(かな)った表現力に富む文章がまた好もしい」と評しています。高樹のぶ子氏に至っては、「人間はもっと複雑で割り切れない存在だということを文学は証明してみせる。この一作がまさにそうだ。」という非常に高い評価を与えています。 文章自体に深い味わいを感じるセンスを持つ人は、やはり文系人間に多いと思います。私は自分自身、純粋な文系人間であると思っています。一文一文を味わいながら読むので、本を読むスピードも遅いのだろうと自分を納得させています(笑)。逆に、数値的思考や科学的な思考では理系人間に到底かなわないでしょう。その証拠に、私は数字パズルの類が全く苦手で、塾生に質問されるといつも困ってしまいます(苦笑)。ですから、つまるところ文系人間と理系人間では、楽しみを感じる分野も別だと思えばいいのではないでしょうか。決して皮肉でなく、「蹴りたい背中」を二度読んでも何も感じられなかったおそらく理系人間であろう方々は、物理や化学に内在する、私などには理解できない<論理の美しさ>を堪能すればいいのだと思います。要するに、それぞれの感性には向き・不向きがあるということです。 それでも、選考委員の中には明らかに批判的な人もいました。73歳になられる三浦哲郎氏と都知事の石原慎太郎氏のお二人です。三浦氏は綿矢さんの作品を「不可解な文章」「幼さばかりが目につく作品」と言い、石原氏は「現代における青春とは、なんと閉塞的なものなのだろうか」と評しています。しかし、思い切って言ってしまいますと、年齢的な理由で文章の意味が理解できないような方は選考委員を務めるべきではないと私は思います。お叱り覚悟でさらに言えば、<今>の文化に追随できないために理解できないことは、例えば幼稚園児などが語彙不足で小説を理解できないことと違わないのではないかと思うのです。つまり、そういう方がこの作品を評価すること自体に無理があるのだと私は思っています。また、このことと直接関係はありませんが、三浦氏が昭和35年ごろに書いたあの私小説「忍ぶ川」がなぜ芥川賞を受賞できたのか、今もって私にはわかりません。 石原氏の選評にもあまり説得力はないと私は思っています。すでに内容すら覚えていないのですが、「太陽の季節」が<開放的な>青春を描いていたという記憶はありませんし(そもそも青春とは閉塞的なものでしかありえないと私は思う)、その上、氏は「完全な遊戯」という、中高生にはとても読ませたくない極めて反社会的な短編小説を書いています。若い時期にそういう作品を書いていた小説家が、なぜ今の若者の青春を<閉塞的>と呼ぶのか、非常に理解に苦しむところです。政治に手を染めた結果、作家としての感性が鈍ったと感じるのは私だけでしょうか。 ちなみに、宮本輝氏が言っていた「驚くべき進歩」は前作の「インストール」と比べてのものでした。そちらについての私の感想も若干述べておきます。序盤には「蹴りたい背中」同様、いやそれ以上かと感じるほど粘性の強い、緻密な文章が並んで、やはり引きつけるものがあるのですが、ゴミ捨て場で少年と出会ってネット風俗のバイトに流れていく辺りから、ストーリーに関してはおもしろみが失われていきました。また、そこからは文章自体もあまり輝きを発しなくなってしまったような気がします。宮本氏の他にもノンフィクション作家の関川夏央氏が「今度の作品はずっとよい」と評していますが、私も同様に「蹴りたい背中」の方がワンランク上だと思っています。 もっとも、私は表計算ソフトしか使わなかった頃も含めるとパソコン歴が20年くらいになるので、ネット上にはそういう風俗営業がありふれていることを熟知していますし、渡辺私塾のアドレスにも毎日のようにその方面からのメールが届きます。こういうやや特殊な(?)人間だからこそストーリー展開におもしろみを感じないのかもしれません。その証拠に、文藝賞の選考委員4名中3名が、少年との出会い以降の話の流れに魅力を感じているようです(こちら参照)。つまるところ「インストール」のテーマは、読み手の生活環境に大きく左右されてしまうものだったということです。ですから、選者によって自ずと感じ方や評価が違ってくることになるわけです。4名中ただ一人どちらかというと批判的だった藤沢周氏の選評は、本質を見抜いて、さすがに異彩を放っていると私は思いました。もっとも、「ブエノスアイレス午前零時」を読んで以来、私は藤沢氏の大ファンなので、いささかひいき目があるかもしれませんが(笑)。 とにかく、何度も書いてきた通り、綿矢さんの文章には読み手を引きつける力があります。あの文章が書ける限り、将来的に作家として枯渇してしまうことはないのではないかと私は感じます。「将来性を期待して芥川賞を与えたとすれば、それは正しい授賞とは言えない」という批判があるのも知っていますが、彼女を高く評価している人たちは、才能は今すでに開花していて、さらに将来的にも有望であると思っているのでしょう。これからの彼女の作品にも、ずっと注目していきたいところです。 |
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