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なぜ人を殺してはいけないのか・後日譚 |
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| <<<哲学か倫理か>>> |
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| 永井氏は、「翔太と猫のインサイトの夏休み」の中で、「デカルトのまちがい」を次のように指摘していました。説明が長くなりますが、非常に大切なポイントなので省略するわけにはいきません。(本の中に登場するのはほとんど、中学生の「翔太」と、哲学者である猫「インサイト」だけです) 主人公の翔太が、猫のインサイトから「哲学には決定論という考え方がある。神の意志や物理的因果性(実証主義的に説明できる原因と結果)などによって、ぼくたちのすべての行為が決定されているという考え方なんだ。」と聞かされました。それを聞いた翔太は「じゃあ、ぼくたちの自由なんて無いじゃないか」という気がしてしまいます。そこで、落ち込んだ翔太を立ち直らせるために、インサイトは以前教えておいたデカルトの考え方を思い出させます。 それは、この世界が「悪霊」によって作られた幻覚にすぎず、実際には自分を取り囲むものすべては存在していないのではないか、という疑惑にとりつかれたとき、「すべてのものがたとえ存在していないとしても、今それを考えている<私>は確実に存在する」と考えついたデカルトの思考法でした。これが、かの有名な「我思う。ゆえに我あり」です。翔太はそれによって元気づけられ、「悪霊なんか<ぼく>の観念の中の存在でしかないんだ。かりに悪霊が<ぼく>を作り出したのだとしても、そういう想定を<ぼく>自身が考えているんだから、<ぼく>は自由なんだ」と言います。 一見、鮮やかに見える解決法なのですが、インサイトはそれを「まちがっている」と言いました。哲学者である猫は、「自分を作り出した悪霊と同じ土俵で戦う必要なんてないんだ」と言うのです。ちょっと難しいのですが、お読みの方はがんばって考えてみて下さい。「悪霊が作り出したのが<ぼく>であったという時点ですでに<ぼく>の勝ちなんだ。『世界を持つ主体』は、存在しているだけですでに勝負に勝っている。悪霊が作り出した世界の住人だとか、適当に、偶然作り出した存在だとか、そんなどうでもいいことからは離れた<ぼく>が実際にいるのだから、もう決定論と戦う必要などないんだ」とインサイトは主張します。つまり、それだけ<ぼく>というのは特別で、極めて重要な存在だというのです。 その上、哲学猫の話はそこで止まりません。さらに「時間」の概念を加え、まさしく<ぼく>が、まさしく<いま>、ここに存在しているというのは本当の奇跡であり、とても神秘的なことであると言います。時間軸の上には<いま>と呼べる時間が無数にあるのに、なぜかここが現実の<いま>であること、<ぼく>は周りにもたくさんいるのに、なぜかこの<ぼく>が現実の<ぼく>であること、それこそがまさしく存在の神秘性であると主張します。でも、ここまでは私(ジュクチョー)が5月の本編で書いた「わたし色の世界」と似ている考え方なので、理解していただける方も多いのではないでしょうか。私自身、小さい頃から何度もこういうことを実感したことがあります。ですからこの主張は本当によく分かります。そして、自分の存在の不思議さに感動しているようなときは、とりあえず周りの人間たちは全くかすんでしまい、あまり考える意味のない存在になってしまうものです。 ところが、自分と同じような<ぼく>や<私>を持つはずの「他者」を本気で考えようとするところから、永井氏のとらえ方が私には理解できなくなります。いや、理解できないというというより、理解する前にどうも反発を覚えてしまうのです。私は「他者」の存在を考えるとき、「神秘的で感動的な、特別な<私>」を持っている「他者」の存在を、60億人ぶん全く自然に想定できます。もちろん、「他者」の<私>がどのように神秘的で、感動的で、特別なのかは分かるはずがありません。しかし、60億それぞれの<私>が、それぞれに神秘的で、感動的で、特別な感じがする「のであろう」ことは容易に想像できます。こんなに特別な<私>が、まさしく<いま>何十億もこの地球上に存在しているという事実を初めて実感したときは、不思議や神秘どころではなく、「そらおそろしい」という言葉がピッタリの、恐怖あるいは畏怖に近い感覚を味わいました。 それなのに永井氏は、「他者の自己、他者の世界を平等に理解したとたん、すべての神秘は消滅してしまう」と言います。インサイトが「翔太の世界」の話をしたとき、翔太がそれを「誰にでもあてはまる世界」の話として受け取ったら、全然伝わったことにはならない、というのです。今自分が想定している「他者」が5人いるとすれば、その5人の世界を「翔太の世界」にすべて吸収しなければならないと哲学猫は主張します。つまり、このサイトの前のページにあった、AさんとB君が<私>の長方形の中にすっぽり入っている図です。あの図の中に5色の円があり、そこに5人が入っている様子をイメージしなければならないということになります。 みなさんはどうお感じでしょうか。確かに、あくまでも<私>が想定している世界なのですから、構造上はあの図のイメージでなければならないのかもしれません。そしてそれは、たくさんの<私>の四角のイメージを想定している次なる<私>がいるとすれば、その次なる<私>の世界に吸収され、さらにその世界もまた、おそらくいるであろう別の次なる<私>の世界に吸収されていく。要するに論理的には、前のページに書いた「無限の転換可能性」が存在し、「殺してもいい←→殺してはいけない」という無限の対他者関係がもたらされることになるのかもしれません。 しかし、その無限の広がりがどうにも私には腑に落ちないのです。確かに永井氏が言う通り、<私>には本当に特別な神秘性があります。他者の存在を色あせさせるほどの輝きがあります。それを思うとき、言葉では表現できないような不思議な衝撃を受けます。でも、だからといって、世界の平等性を考えることでその神秘性が消えた瞬間、哲学は本当に終わることになるのでしょうか。<私>の神秘性を感じなくなるような思考は、もう哲学ではないのでしょうか。「他者」の中に、<私>と似たような<私>の可能性を感じ、他者の存在も自分同様に輝かしいものなのではないかと思ったときには、もう哲学の範疇を飛び越えてしまっているのでしょうか。 おそらく永井氏は、「その通り。もうそれは哲学じゃないよ」と答えるでしょう。万が一永井氏がこのサイトを見たとしたら、一瞬は「お、俺の言いたいことが分かってるみたいだぞ」と思うでしょうが、この結論部を読むと、「なぁんだ、やっぱダメじゃん」と感じることでしょう。なんだかんだ言いながら、永井氏の言う<私>を自分が本当には理解できてなかったのかもしれないと考えると、私自身かなり落胆もします。 しかしながら、哲学がそこで止まるというのなら、むしろ止めるべきだと私は思います。「哲学は答えを出すことではなく、問い続けることだ」と永井氏が言うのなら、むしろここで哲学をやめるべきだと私は思うのです。なぜなら、この哲学的な考察は、「なぜ人を殺してはいけないのか」と純粋に質問している、あるいはこれからする可能性がある若者に対しての答えを模索するためのものだったのですから。読んでいる人にも笑われそうな、完全なるひらき直りですが、私にとっては「答えはあるのか」を考えるより、「いかにして納得できる答えを用意するか」を考える方が大切でした。問うている若者が「ああ、そうだったのか」と本当に身にしみて納得してくれるような答えを私は懸命に探していました。そして、ある程度の自信を持って考え出した「一人一世界論」が、若者の胸に直接しみこむような、重たい答えであってほしいと今でも願っているのです。 永井氏に限らず、他の人にも「途中で逃げるなら最初から哲学なんて持ち出さなければよかったじゃないか」と言われそうです。でも、今までの長い説明でお分かりいただけたように、「特別な<私>が60億存在している」というところまでは哲学的に背景を説明できたと思っています。そして、何よりもそこが、私にとっては最も重要なポイントでした。その、核になる大切な命題を説明できただけで、私にとっての、このテーマに関しての哲学の役割は終わったのです。あとはただ、倫理の世界に戻ればいいのです。たとえ最後で哲学的に論理が破綻しているとしても、とにかく、6年前に素朴な質問を発した少年の心に、あるいは今まさしく素直な気持ちで「なぜ?」と問おうとしている若者に、「倫理的に直接とどろく」回答になっていればいいのだと私は思います。「この地球上に存在する60億の特別な<私>の世界。その一つたりとも人間の手で消してはいけないのだ」と、私はくり返し彼らに言いたいのです。 この極めて道徳的な答えが、私が最も伝えたかったことであり、そしてすべてです。 ※※※「倫理学」という言葉を使うと、それは哲学の一部門になりますから混乱してしまいます。そのため「倫理(的)」という表現に留めました。私は「倫理」=「道徳」という意味で、それらの言葉を用いています。※※※ |
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