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なぜ人を殺してはいけないのか・後日譚 |
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| <<<ジュクチョーの敗北>>> |
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| 続いて、小泉義之氏と永井均氏の共著について考えてみます。まず小泉氏の回答なのですが、正直言ってよく分かりませんでした。やつぎばやに登場する「違法性阻却論」「社会契約説に見られる自然状態論」「ロールズの正義論」など、哲学者にとっての常識が、我々素人にとっては落ち着いて前後を読まなければ理解しにくい用語となっています。最高級フランス料理のフルコースを、小皿1枚にてんこ盛り状態で目の前に出され、(氏の攻撃的な文章も相まってか)「5分で平らげろ」と言われているような感じがするのです。しかも、もちろん私の読解力不足・知識不足が原因なのでしょうが、それら紹介されている論理群は、すべてが結論を導くために有効に機能しているわけではない(要するに一部は書く必要がなかった)ように感じられます。 つまるところ私が理解できた小泉氏の結論は、「眼前の人物を消去する方法なら他にもあるから、もっと良いやり方を考えろ」と、「その答えは、殺人は絶対的な罪であり悪であるという<信仰>であってよい。理由や根拠を与えようとすると絶対性が失われる」でした。「もっと良い方法を考えろ」にしても、「信仰」にしても、皆さんはどう感じるでしょうか。少なくとも私にとっては、とても哲学者が言っているとは思えない悲しい結論でした。それでも、「社会契約説はウソであり、『殺すな』という誓約にしたがって共同体が形成されているわけではないのだ」という表現が氏の説明の中に見られ、小浜逸郎氏の結論と見事に対立していた点は興味深く感じられました。 私が最も引きつけられた、というより衝撃を受けたのは永井均氏の考え方です。前にも記した通り「道徳的な答えは無い」というのが永井氏の結論の一つなのですが、哲学的な考察の中に恐るべき記述がありました。 氏は「子どものための哲学」という著作の後書きで、「(一時期一世を風靡した)『ソフィーの世界』は断じて哲学書ではない」と言っていました。「哲学史(哲学の歴史)の研究は決して哲学そのものではない」と言いたかったのでしょう。実際、その本の中でも、また氏が『ソフィー』に当たるような哲学史の本だと言っていた「翔太と猫のインサイトの夏休み」という著作の中でも、<わたし>という存在の特別さを強調し、(氏にとっての)本物の哲学の世界を展開していました。 その2冊を読んで、私は一応「<わたし>の特別さ」を理解していたつもりでした。ですから、先月書いた「なぜ人を…」の本編でも、永井氏の考えを特に意識していたわけではなかったのですが、「わたし色の世界」という言葉を使ったのだと思います。つまり、私の考え方は少なからず永井氏に影響されていたということです。ところがところが、実際には永井氏の考える<わたし>は、私が思っている<わたし>よりも遥かに特別なものでした。それが、「殺す」という忌むべき究極の行為をテーマにして初めて、身に染みて実感できたようです。 私が考える「全く別の世界」は本編で図解した通りです。しかし永井氏は、そのAさんとB君がいる世界を考えている私(ジュクチョー)を当然のように想定します。つまり下の図のようになります。 |
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| 私が考えていたAさんがいる「Aさん色の世界」をA世界、B君がいる「B君色の世界」をB世界と定義して、それらを「別物」と考えるところまでは私と同じです。しかし、永井氏の考え方では、それを想定している私(ジュクチョー)をすぐに登場させなければなりません。そして、これがすごいところなのですが、<私>であるジュクチョーがAさんやB君を殺したとしても、<私>の世界は消えません。もちろん実際には60億人いるわけですし、60億人すべてを殺してだれもいなくなっても、まだ世界は残っています。ですから、恐ろしいことに、<私>は<私>の世界の人間をだれでも殺してもいいことになります。 ところが、AさんやB君がもしも<私>であるジュクチョーを殺したら、<私>の世界が消えてしまいます。つまりAさんやB君は<私>であるジュクチョーを殺してはいけないということになります。永井氏にとっての<私>とは、それほどまでに特別な存在であるということです。そしてここに、一方通行ながら「人を殺してはいけない」という理由の一端がかいま見える、と永井氏は言います。この図の<私>を<きみ>という他人に置き換え、<私>をAさんやB君に置き換えて、「きみは人を殺してもよい。『だから』わたしはきみを殺してはいけない」という命題を導いています。その上、氏はそれを共著の第二章のタイトルにまでしているのでした。 しかしながら、図のイメージをさらに広げると、永井氏はすでに、そういうことを考える<私>は世の中にたくさんいるだろうということを想定していますから、上の図の<私>の四角がたくさん並んでいる世界が永井氏の頭の中に存在しています。そうすると今度は、永井氏が<私>であるジュクチョーを殺しても全く問題が無いことになります。そして反対に、ジュクチョーは永井氏を殺してはいけない、ということになるわけです。もちろん、さらにその外側に、そのような考えを持つ永井氏や他の人たちを想定している小泉氏がいます。したがって、その場合は小泉氏は永井氏を殺してもいいが、その逆はいけないということになります。 哲学的に考えれば、このような無限の転換可能性の中に「殺してはいけない」という規範の存在可能性がかいま見られる……が、本当の答えはやはり無い、というのが永井氏の結論でした。つまり、私が考えた「一人一世界論」は、無限に展開する空間を初めの段階で止めてしまった、中途半端極まりない理論であるということになります。氏に言わせれば、「世界は決してそのような構造で静止することがない」から、現実の世界にそれを組み込むのは「虚構」であり、明らかな「嘘」であるということになります。さらに、こういった「事実に反しているが、それが事実であるかように語ることで世の中がよくなるような言説」を「善なる嘘」と氏は呼んでいます。そして、「善なる嘘」を手放しで信じるのは「道徳的狂信者」であり、その存在は「むなしい」と言い切ります。 というわけで、「一人一世界論」の段階で世界を「止めてしまった」私の考えは、氏に言わせれば明らかに「善なる嘘」であり、それを懸命に語る私は「むなしい道徳的狂信者」に過ぎないのでした。私が新らしいコンテンツとして「塾長の考え」を偉そうに掲載する5年前に、それをすでに「虚構」と定義する人がいたというのは、本当に悔しい限りです(笑)。それに、この永井氏の理論に関する考察を読んだ人は、「なんだ、ジュクチョーの完敗じゃないか」と思うことでしょう。それもとっても悔しいです(爆)。 まあ、相手が本物の哲学者なのですから負けて当然なのですが、それでも、悔しさを少しでも発散するために、できれば一矢報いたいです。皆さん、恐れ入りますがもう少しお付き合いいただけないでしょうか。m(_ _;)m |
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| かわいそうだから 続きを読んであげる |
もうキレた |