なぜ人を殺してはいけないのか

 このとても素朴な疑問に対する答えを、確か2001年から私は毎年中学生に説明しています。初めの年に3学年一斉に話したため、2年目からは新中学1年生にだけ教えればよいことになりました。

 当然ながら、これは学校の先生が道徳の授業などで解説し、指導すべきテーマです。ただ、自分の学生時代にはどの先生もこれについて教えてくれなかったという記憶がありましたし、実際に各学年の塾生に尋ねても「はっきりした答えは聞いていない」という反応でした。そこで、ある意味門外漢である私がしゃしゃり出たわけです。

 結論から言うと、「世界じゅうの一人一人の人間が、全く別の世界に生きているから」という答えになります。でも、この言葉だけでは少々分かりにくく、また誤解もされやすいですから、私の考えを正確に伝えるために多少の説明を加えます。

 まず、「全く別の世界」とはどういうことなのか――。
 今これを読んで下さっている方も一度は感じたことがあるでしょう。例えば「自分が持っている月(the moon)のイメージと友だちのAさんやB君が持っている月のイメージは全く違うものなのではないか?」というごく自然な疑問を。はるか彼方と言えども現実に存在している(と、だれもが思っている)ものなのに、妙に神秘的な存在と感じる人もいれば、ロマンチックな星と思う人もいるし、単なる地球の衛星ととらえる人もいる。はたまた、裏側には宇宙人の基地があるなどと考える人もいる。

 こんな風に書くと、「それはあくまでも『感じ方』や『考え方』の違いでしかない。実際の月は地球の衛星で、重力は地球の6分の1、ゲンブ岩やチョウ石でできてて……」などと、科学的な見地から批判を浴びそうですね。「月は月であってそれ以外の何者でもなく、あそこにきちんと月として存在しているのだ」と。

 でも、そういった理論的な分析も、存在の同一性を説明できない場合があります。思い切り卑近な例になって申し訳ありませんが、私はベニバナ色素に対するアレルギーを持っていて、摂取すると翌日くちびるがはれ上がります。しかし、別のほとんどの人にとっては、それははちみつレモンやゼリーなどをほどよい色合いにする大切な色素です。範囲を人間の他のものにまで広げてしまうと、二酸化炭素は、植物にとっては自分の体の中で栄養を作り出すために欠かせない気体ですが、動物にとっては体外に排出すべき不要物でしかありません。

 このように、精神的にも肉体的にも物理的にも、それぞれの存在にとって存在価値が違ったり、神やUFOなどのように存在自体があやふやだったりするものが数多くあります。こういう説明を聞いて、皆さんの中には、「そんなの当たり前じゃないか」と思われた方もいらっしゃるでしょうか。そう、その感想は全くもって正常です。私は、はなからとても当たり前のことを説明しようとしているのでした。「なんだよ、偉そうに書き始めて…」と思われた方、誠に申し訳ありません。

 ところが、この当たり前のことを20世紀に入ってから学問としてきちんと系統立てた人がいました。ハイデガーやサルトルにも大きな影響を与えたドイツの哲学者、フッサールです。私は学生の頃から哲学に興味があったものの、詳しいなどとはとても言えませんので、大まかに、大胆に、しかも幼稚にしか説明できません。が、とにかく、とりあえずフッサールの哲学は現象学と呼ばれています。

 彼は、私たちを取り囲む世界は、初めから世界として存在しているのではなく、我々の意識の中で形作られていくものであることを強調しました。我々一人一人が存在する前から世界が世界として存在していると考えるのは、ただ単に普段の生活の中で身につけた習慣的な考え方であると彼は言います。そして、まずはそれを信じ切ってしまうのをやめることが必要だと言いました。我々一人一人の意識が世界を生み出す根源であるから、それを中心にして世界じゅうに見える様々な物事を分析していくことが大切だと言うのです。

 皆さんの中にもこの考えには賛成できないという方もいらっしゃるかもしれません。同様に、当時主流だった実証主義(経験や、経験を通して得た知識をもとにして世界を見ようとする考え方。つまり「月は地球の衛星で、重力は6分の1で…」という考え方)に対してもやはり正反対の立場にあったので、そちら派の哲学者からはかなり批判を浴びました。ただ、哲学の知識をお持ちの方がこの辺りの説明を読まれると、「現象学が登場するずっと前から『観念論』と『唯物論』(あるいは『実在論』・『経験論』)の対立があったじゃないか」とお感じになるでしょう。

 確かに、それは全くその通りです。フッサールの思想も、多くの哲学者に「独我論的観念論に過ぎない」と批判されました。ですから、観念論か唯物論(実在論)かで分けるならば現象学は当然観念論になるでしょう。しかしながら、観念論はヘーゲルまで行き着くと世界はすべて「絶対精神」によって形成され、歴史すらも「世界精神」であるとされますから、現実の世の中にあてはめるとやや理解しづらいような気がします。「個人と世界」を考えるときには、やはり「世界の存在に先立って我々は世界を生きている」というフッサールの主張がピッタリなのではないかと私は思っています。

 この、現象学の極めて稚拙なとらえ方が間違っていなければ、これはまさしく「世界は一人一人の人間にとって全く別のものであり、世界は人間の数だけ存在する」という考え方の後ろ盾になります。なぜなら、世界とは個人の意識が作り出すものなのですから、世界に60億の人間がいて、60億の意識があるのなら、60億の世界が存在すると言ってもいいことになるからです。


※※※観念論は「意識や精神を存在の原理とする考え方」で、唯物論は「物質を本物の存在とする考え方」。唯物論では意識も神経系の化学変化と考える※※※


 
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