塾の考え

(2002年4月 下のリンク欄改訂)

 渡辺私塾は、台町本校が開塾26年目、荒町教室が22年目を迎える私塾です。栃木県真岡市の地域性と開講時期がうまく合ったという理由もあるかもしれませんが、今日の当塾があるのは、ひとえに地元の皆様の御協力のお陰であると深く感謝いたしております。

  台町本校と荒町教室は、兄弟がそれぞれを経営する別会社ではあるものの、二人の教育や塾経営に関する基本理念に大きな差違はありません。一言で言えば、広告等にも頻繁に用いるキャッチコピー、「人間みな天才」という言葉に集約されます。もちろんこの表現には、ご覧になった方皆さんがおそらく思い浮かべられるであろう「人それぞれに長けた点がある」という意味も含まれてはいますが、それよりも私たちは、「だれもが天才になれる」という思いを強く抱いております。卑近な例を挙げれば、努力の継続によって以前では到底望めなかったような高校や大学に合格できた場合、その人は立派に「天賦の才を発揮した」ことになる、というものなどです。当然ながら、逆に充分な才能を有していながら努力を怠ったために芳しい結果を出せなかった人は、全くの「凡人」ということになってしまいます。つまり、「努力できる人」が本物の「天才」である、と私たちは考えているわけです。

 ところが、学校教育においては、ここ数年の教育改革の一つの結論として、2002年度から(高校では2003年度から)教育内容を約3割削減するという方針が定められました。文部大臣の諮問機関である教育課程審議会の答申の中に再三「ゆとりと生きる力」という表現が登場しましたが、詰まるところ、教科書の中味を減らすことによってそれを学生たちに身につけさせようという試みのようです。

 私たちは学習内容の削減の必要性を感じていません。現在の量でもほぼ完璧に習得できる生徒はいますし、また全体が無理な生徒ならば部分的にでも学び取るよう努力すればいいからです。真剣に模索すべきは、教科の内容を減らして子供たちにいかに時間的なゆとりを与えるかではなく、生徒の「努力量」を正しく評価するシステムです。その生徒がどれだけの人間らしい努力をしたかを計る尺度です。相対評価でも絶対評価でも現状の到達度評価でもない、新たな個別到達度評価なのです。非常に難しいことですが、それさえ確立できれば理想に近い人物評価が可能となるのではないでしょうか。

 ただ、それでも、一連の改革の主旨が「長時間かけて少ない量を学ばせる」というものであれば、理解が遅い生徒への配慮として充分納得できます。しかしながら、「ゆとりある生活のためには学校も週休2日制が望ましい」→「そのためには授業時間を1割は減らさなければならない」→「当然教科書の内容も大幅に削減しなければならない」という思考の流れは、「初めに週休2日制ありき」という印象が強く、教育の本質を見つめた改革であるとは思えません。あたかも完全週休2日制が絶対善のテーゼであるかのようです。(同時に唱えられた「総合学習」などの指導法も、付加的かつお茶を濁すような提案と言えるでしょう。実体験重視の学習は小学校までで充分であると私たちは考えるからです。)

 今更論ずるのも遅きに失していますが、そもそも、週休2日制によって、本当に子供たちは「ゆとりと生きる力」を身につけることができるのでしょうか。表面上の自由時間が増えるのは明らかだとしても、それが学習内容の削減に裏付けられたものであるのなら、子供たちはただ怠惰になるだけなのではないでしょうか。「時間的なゆとり」が果たしてそのまま「人間的なゆとり」につながるのでしょうか。

 自ずと湧いてくるこれらの疑問は、私たちに大いなる不安を抱かせます。私たちは、人間は様々な試練によって磨かれてこそゆとりある人間となることができ、努力できる精神力を身に付つけて初めて生きる力を得ることができると信じるからです。練磨なくして、人間にはゆとりも生きる力も生まれ得ません。

 また、学校での学習時間と内容の削減が、「考えること」から子供たちを遠ざける結果を招きはしないかと、私たちは強く危惧します。下の「なぜ勉強するのか」の中でも紹介している通り、人間にとって最も大切な行為は「考える」という行為です。それは大切であると同時に、人間にとって最も自然であり、当然の行為です。この宿命的作業から果たして子供たちを遠ざけていいのか、生涯学習を謳いながらなぜ学校の授業時間は減らすのか、リカレント教育を見込んで勉強を先送りすると言うのか、現行教科学習はそれほど罪深い行いなのか、私たちは声を大にして問いたいです。

 子供たちにとって本当に大切なのは、考えることの深さ、理解する喜び、知性の気高さ、極言すれば人間の叡智の美しさを知ることでしょう。そして、それら学問の真髄を理解するまでには相応の努力が必要であり、同時にその努力が人を磨いてもくれ、さらには試練によって磨かれた人は崇高な存在となれることを我々は彼らに伝えなければなりません。それを教えることこそ、真の教育であるはずです。にもかかわらず、悲しいかな、文部省は授業時間と教育内容を削減することを第一命題としているのです。

 これでは、政府は、遥か以前から純粋に勉学に励む生徒たちをも受験戦争の被害者と呼び、詰め込み学習やガリ勉はただただ醜悪であるとののしり続けてきた一部のマスコミや評論家の意見を鵜呑みにしただけ、あるいはそれらによって作り上げられた世論に迎合しただけ、と言われても仕方がありません。教課審や中教審は、自然の中を走り回る子供の姿やスポーツをしながらグラウンドで流す汗は美しく、志望校合格のために机にしがみついて勉強する姿は醜いなどといった、それこそ子供じみた陳腐な考えをそのまま正しいと思いこんでしまったのか、と疑われてしまいます。そのように考えると、誠に遺憾ながら、少なくとも私たちは、今次の教育改革が説得力を持つものであったと判断することはできません。

 繰り返しになりますが、私たちは「考えること」が人間たることを証明する根源的行為であると主張します。そして、明らかに不要であると感じられる部分もあるものの、子供たちに考える鍛錬をさせるためには教科学習が適していると認識しています。この判断に基づき、小学生に対しても、部活動で疲れ切った体を引きずりながら通塾してくる中学生に対しても、あくまでも教科書を中心とした授業を展開しております。もちろん、彼らが中間・期末テストでの好成績あるいは高校入試突破などの目に見える効果を期待しているのは自明です。しかしながら、成長期にある人間の潜在意識には、より深く、より長く「考えたい」という本能的願望があることを私たちは信じていますし、彼らのその願望に答えることこそ塾の使命であるとという信念も持っております。

 また、現状の教育制度の下では「効果的に考える訓練をさせることができていない」と私たちは感じております。具体的に言えば、「差別」のそしりを受けることを恐れる余り、能力別学級編成が行えないことなどが挙げられます。そして、それら現在の学校教育では不可能となってしまった部分を補うのも、塾の果たすべき役割であると理解しております。その意味もあって、同学年100名以上が一時に集まる荒町教室では、3〜4クラス構成で、数学・英語それぞれ独立して能力別クラス編成を行っているわけです。もちろん差別と呼ぶべき性質のものであるはずがありません。造語をお許し頂けば、「適人適所」とでも言えましょう。(差別と感じる生徒は初めから荒町教室には入りません。)塾長を初め各講師は、担当クラスの能力に応じて「考えることの醍醐味」を教えるため、日々精進を続けている次第です。



 さて、長々と教育に関する基本理念を述べて参りましたが、生徒たちへの実戦的アドバイスも若干は必要であると思われます。つきましては、とりあえず以下の3項目を用意しました。興味のある方はどうぞご覧下さい。なお、これらは時期を見て替えていく予定です。



 ※2000年5月に初掲載した文章。実際には今年(2002年)4月に台町本校が
  28年目、荒町教室は24年目を迎える。新版教科書を少なくとも1年使用し、
  内容を熟知した後、筆者はその時点での考えを述べる所存。それまでは
  原文を変えずに掲載する





2002年度改訂版教科書について


学校週5日制について


(ともに2003年5月掲載・長文)



なぜ勉強するのか
(2002年4月小改訂)

中学1・2年
平日の勉強法

中学3年
1学期の勉強法


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